不安と強迫観念

絵を描くとは、自分がいることを確認する作業である。
その背景にあるのは、自分はいないかもしれないという「不安」である。


子どもの頃こんな感覚があった。
「自分は生物的には死んでるはずなんだけど、医学の進歩で生きてるだけなのできっと劣っているはずだ。本来、自分はもうこの世にいないはずだ。」

そして、「なんでみんなは自分の存在が当たり前のようにものが言えるのだろう?」って不思議でならなかった。自分がいるのかどうか分からない不安があったのだ。

勉強ができてテストの点数が高くなったところで自分の存在の確認にはならない気がしていた。

自分の確認、自分がいるという証拠は「自分が感じたこと」だ。「何かを感じる」ということは自分の主体が存在するわけだし。

「自分が何か思うこと」「自分が何かを考えること」も確かに自分があってこそだと思うのだが、自分が思った「ことがら」、考えた「ことがら」、が自分由来のものであるとは限らない。自分の考えなんて誰かの受け売りか借り物だったりするものだから。

感受性は借りることは出来ない。自分の存在の根拠は「感じること」で確かめられるのだ。




音楽や絵は基本的に「感じる」ものである。たとえ誰かに影響を受けたとしても感じたのは自分だ。

感じてる自分を表明することは恥ずかしい。自分の本性であるからこそ。
中学生の頃、流れる音楽に無意識的にノッていた僕の真似を友達にされて死ぬ程恥ずかしかった思い出がある。
それ以降、「感じた自分を恥ずかしがらずに表現できるようになりたい。」と強く思ったのだ。

「感じたことの表明」、それが自分の存在を肯定してくれる。




絵を描くとは、自分を許す作業である。
その背景にあるのは、自分を許せない「強迫観念」である。


物心がついて自意識が過剰になる年頃あたりから「自分が許せない」という自我がとても強くあった。

超自我というものだろうか。
実存的不安というものだろうか。
何かの抑圧だろうか。

絵を描くと少し自分が許せて楽になるのである。


不安と強迫観念。それは理想とロマンチシズムを志向する土壌にもなった。


不安と強迫観念から解放される為に絵を描いてきたとするならば、解放されたら絵を描く必要性がなくなるのか?といえばそうでもなかったりする。


平安と楽観。そこに立って趣きのある絵を描く。次のステージに移行するのである。
そしたら売れるのだ。

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