「作品」は作品それ自体では完成しない。
「背景の物語り」が必要である。
必要であるというか、必然的に知りたくなるものである。
「背景の物語り」を先に知っちゃうと作品そのものに対して先入観が混ざるから、解説や物語りを見ずにまっすぐに作品を感じよう、なんてずっと思ってた。
例えば、美術館に行くとする。
あえて解説やテキストをまったく読まないで、まず作品を観る。自分がなにを感じるのか、そこが重要なのだ。
その後に作品の解説を読む。
そしてまた作品を観てみる。
そうするとちょっと違って見える。
そんな見方をしたりする。
パッと観て気に入った作品が、読んでみるとその背景物語りも面白かった場合なんかは、「してやったり!」と思うんだ。
作品主義というか。主義というほどでもないけど、意識的に「作品」に重きを置こうとしていた。
この発想はなんだろう?
なんで作品の文脈や構造や背景の物語りを「いったんは無視」しようと心がけたのだろうか?
それは「ロックの流儀」(苦笑)だったのかな、と思い出してみる。
ロックこそロッカー達の伝説的な「背景の物語」が重要に思われるけど、ちょっとニュアンスがある。
「パッと聴いてシビレたら正解」なのだ。
これってなんだかよく分からないんだけど、そういうものを根拠にする価値観。
それを「感性」とか呼んで、「考えること」よりも優位に置く価値観だ。
そして「背景の物語り」も同様に「パッと聴いてシビレたら正解」なのだ。
ダラダラ文脈を追って「ロックとはなにか」を評論するオッサンに対して、「うぜー」と感じる方が価値として上位にあるのだ。
例えば、何でもいい。ジャニス・ジョップリン。
あの引き裂くような声で「Come on~!」と歌い出せばもうそれでノックアウトだ。それでいい。
そして夭逝する。もうそれで悲劇の伝説。それでいい。
作品と物語りは見事に「パッと聴いてシビレる」のだ。
パッと聴いてシビレる作品とはわかり易さだ。
パッと聴いてシビレる物語りは悲劇だ。
この「ロックの流儀」(苦笑)は今も生き続けている。
美術とかクラッシックとか、一見、「安易な商品化を拒む深遠なるもの」と思われていそうな場所も同じなのだ。
例の佐村河内守・新垣隆騒動に僕はなぜか物凄く興味を抱いた。
僕は彼らの曲を聴いたことがないのになんでなんだろう?
ゴーストライターだったという事実自体がなんだか「物語り」のようだ。
「作品」と「物語り」で藝術は成立する。
いや、別に藝術だけに限った事ではない。
「コンテンツ」と「ブランディング」と言い換えられるから、商売全体に適用される「原形」なのかも知れない。
作品を「中心」と考えると、物語りは「周辺」だ。
遠心力が強いほど物語りは外側に飛び出していく。
ただ、日本人観というか、自然の摂理というか、「中心は空洞」という思想めいた直感が自分には大きく、ある。
リアリティはむしろ「周辺の物語り」に宿る。
そして、中心は「空」なのだ。
作品の正体は「空」なのかも知れない。なんて考えるととても趣が深いのだ。
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