「出来事」と「枠」

ところで、作品とは「出来事」と「枠」で出来ている。
ということで、「出来事」と「枠」の思考で政治活動をアートの視点から見てみましょう。

<出来事はそのままで枠の設定を変える>

外山恒一

これは現代美術の基本アプローチだよね。パンクで言うなら「初期パンク」、「オリジナルパンク」です。とても面白いです。


2014年1月23日(木)、東京都知事選の公示日から開始された外山恒一さんによる­「原発推進派(舛添&田母神)ほめご...大絶賛キャンペーン〜東京都知事選2014­〜」の密着取材映像です。
この日は9時間ほど、原発推進派である舛添要一候補と田母神俊雄候補をほめごろ...­大絶賛して回りました。
「こんな国滅ぼしましょう原発で。」
「舛添さん、田母神さん、これからも原発推進頑張ってください。全原発再稼働でスリル­あふれる日本を取り戻しましょう。」
「舛添さん、田母神さん達のおかげで原発再稼働まであと一歩、あと一歩でございます。­」
「私達はテロリストです。原発推進の舛添さんを応援しています。」 ...などのスピーチを、タイマーズの『原発賛成音頭』を爆音で流しながら行なってい­ました。

原発推進派の候補者をそのまま持ってきて「こんな国滅ぼしましょう原発で」と枠を変えて設定すると、原発推進派の候補者が全く違う意味になってしまう。

これはデュシャンの『泉』とまったく同じ手法です。
便器という既成のものをトイレという「枠」から美術館に変えて置くと全く違う意味になってしまう。

現在でもこの手法は有効で、「どのような「枠」を設定しているか」を競い合ってるのがわりかし今のアートでもあります。

さて、今度は逆のパターンです。


<簡単な枠だけを設定して出来事を他者によって生成させる>

家入かずま

http://ieiri.net/

都知事選の候補者ですが、政策をハッシュタグ「#ぼくらの政策」で政策を募集しています。
この人の場合の、「出来事」と「枠」は現代美術の生みの親デュシャンの手法の逆をいく。

「枠」がまず設定されてしまっているのだ。
そして、「出来事」に動きを持ってきている。それも自分じゃなくて他者によってである。

こんなサイトもある。
http://ieiri-poster.com/
こちらも同様に「出来事」をみんなでいじるものだ。


話は反れるけど、この「メタ政策」は面白い。

現在、政党に意味があるのか? 候補者の政策に意味があるのか?
支持団体に利権を誘導するための政党と政治家。
政党はもはやイデオロギーではない、どこの団体に利権を誘導するかの旗印でしかない。もとよりイデオロギーすらもう要らない。
政策だってマニフェストなんて掲げて当選しても反故になるではないか。
政党も候補者が政策を掲げるのも意味ないじゃん。

だから「政治不信」とかいうけど、そうじゃないんだ。
この間接民主主義と政党政治の「仕組み」が限界に達しているのだ。

政党も要らない、政策もいらない、本当は議員も要らない、役人も要らない。
政治家肌の人力が必要なのは外交だけでしょう。
政府は単なるプラットフォームでいい。

政策は生活から浮上する。
例えばデータで問題が可視化されるならネットが問題解決を自動化できないだろうか。人を介さず物質がネットワークされれば利権を少なくしてインフラを守ることができるんじゃないのか?
例えば、とある物資が足りなかったデータが直接足りない物資のあるところに補給を自動的に即して運搬物にリストアップされている。とか。
また、数値化されない人間の情動から生まれる問題なら政策をこうやって募ればいい。
水道光熱の使用量から命の危険な状態をデータにできないだろうか?そしたらそこに食料を届けるとかできないだろうか。
政策が生まれたら問題ごとにプロジェクトが組まれ解決していく仕組みってできないのだろうか?

そんな、ちょっとあれこれ政治の未来を空想してしまう候補者である。


話を戻すと、こういうちょっとした「枠」を設定して「出来事」を募る「装置」は現代美術でも使われてる気がする。
「参加型アート」とか呼ばれたりしながら。

このような未来の暮らし、社会をイメージをさせる「装置」を発明するアートがもっと出てきてもいいなあと思う。


0 件のコメント: